ビニールは棚に上がり金網にビニールを紐で結んでいました。荻原さんは、隣の鉄棒と竹でアーチを1m位にした組み立ての簡易ハウスを見に行く。先生に御礼を言い、帰る支度をしてその日の夜に家に帰る事ができました。12月から翌年に掛けて荻原さん、田中君、小生の3人で雨よけハウスの建設に取り掛かる。正月は休みを返上して1人で作業をする。
中野市竹原と深沢は志賀高原、大沼池から流れる夜間瀬川を境にしている。直線で500mから1km位の違いで、積雪は当部落は竹原部落に比べ2倍の量が降ります。作業は図面で理想の土屋式ハウスを採用、田中君も同様に採用する。荻原さんは連棟の鉄棒と竹で半径1m位のアーチ型で行う。小生はコンクリートの代わりに、使い易い丸太を使用、土に埋ける所はコールタールに浸ける。
しかし、積雪1m以上の中では、作業は進まないし疲れる。竹原部落に見に行くと、作業は、順調に進んでいるので、こちらは気持ちが焦る。3月中には完成しないといけない。竹原の2人は巨峰品種にハウスにする。小生は雨に当たるとできないマスカット、オリンピアのハウスは今までに誰もハウス試作はしていない、葉裏に毛網がないため雨に弱い。初なりは良いオリンピアが出来たがその後は悪い。何とかしたい思いでオリンピアをハウスに入れる。
3月中旬に建設完了。これよりビニール、被覆の作業の準備、10名ほどの人々にお願いして歩く。120坪の1枚のビニールを被覆するので、朝の風のない日を選び天気を気にしながら待つ。当時は朝ごはん前に人を雇う風習がないため、少し早く7時30分に来ていただくことにする。
ビニール1枚を広げて2から3人が屋根に上がり、後の人達はビニールを広げる作業に入ると、風の突風が来てふわっとビニールが人の手を離れて舞い上がる。風が止まないため作業中止。強い北風の翌日は例年ですと穏やかな朝になる。1時間待ち解散。天候を見てお願いすることにした。18日、朝はやい時間は風がないので、午前7時に作業に入る。今度はスムーズにビニール被覆ができた。皆さんにお礼を言い、喜んで帰られる。
1枚のぶどう棚を区切ってあるので、次の日からサイド(裾周り)にビニールを張る作業に入る。20日頃には完成する。初めての雨避けハウスでしたので、毎朝、起きると作業を行う。今と違い花の房は、はさみでぶどう形に切る。そのままにして置くと30cmも房が伸びて数粒が房に着くだけになります。
運がよくぶどう方の房ができ上がる。管理がよく解らないので、デラゥエア、ネオマスカットを作っている荻原さんのハウス見に行き8月上旬を迎える。市場に出荷するために、長野県経済連下高井事務所の方、長野県園芸試験場分場後沢場長さんと連絡を取り、東京神田市場に出荷することにする。8月中旬に、オリンピア、マスカット(アレキ)、の2品種を送り出す。
オリンピアは4kg、1箱、1600円。マスカットは黄緑色の香りの強い良い品質でしたがネオマスカットの価格で良くない為、収穫が終わり次第切り倒す。巨峰の値段は荻原様に聞きました。露地の巨峰が500円、ハウス物は1000円になり、高値が付いた。
この時代に澤登晴雄先生は長野県東部町中屋敷ぶどう団地造成の組合長、清水純一さんと関わり信越線田中駅まで、澤登先生に会いに行きましたし、先生が此方まで来て頂きました事もあります。
ホップの跡地は火山灰土壌、家には粘土質土壌が有ると言いますと、その方が栽培しやすいから、ぶどう、オリンピアを移した方が良いのではないかと助言を受けました。
火灰土壌に自家製堆肥を入れているので良い結果がでると、確信を持っていました。今でも同様です。清水さんの話では、東部町和の初代長野県巨峰会、(巨峰は1937年、大井上康氏が、(センテニアル×石原早生)。作出)
竹内さんから、巨峰苗木を譲り受け3年生で初なり、澤登先生からは数品種を導入。長野県の指導ではネオマスカット、デラウェアーが奨励品種なので間作に巨峰を皆さんに植えさせた。そうしないと団地造成が出来ない事でした。
巨峰が成り出し市場に大量に出たので荷の引き合いが強く高値が出て毎年値段は倍、倍と付けられと聞きました。
今までの巨峰会(日本理農協会)は個人出荷で数量が少なく値段が出ませんでした。2003年に聞きました。
そう言うと、当時はキァヤンベル並みの値段で山梨県の土屋先生は採算が合わない、ネオマスカットから見ると房の粒が取れ易い。その為に切り倒したと先生から聞きました。
土屋先生は粒の取れ易い巨峰が市場に大量に出ると困るではないかと疑問を持たれていました。巨峰の値段が毎年上がる大量生産時代の先覚者は清水純一様であります。清水様が小生に話して頂いた事で、巨峰の歴史が塗り替えられることでしょう。